人生の目標

 

「一度しかない自分の人生は、常に夢や具体的な目標を持って歩むべきである」という助言には誰もがそうだと頷くと思う。薩摩藩出身の明治の偉人の一人である黒田清隆が招聘した札幌農学校教頭のクラーク博士は、わずか8か月間の在任中にその後の日本を代表する人物に多大なる影響を与えた。そのクラーク博士の「Boys be ambitious」もそれ近いニュアンスであろう。若者に語りかけるときには「夢に向かって進め」という表現もよく聞く。われわれ医師も、他人に見えるように掲げるかどうかは別にして、医師としての人生をそれぞれの目標に向かって進んでいると思う。

平成21年1月29日付けの日経新聞に1〜2年前に起きた窃盗事件が掲載されていた。80歳代の男性宅の庭に埋めてあった2億8千万円が盗まれたという記事である。時間が経過してから報道された理由は、この老人被害者の訴えの確認に時間を要した、つまり事件であると決定することに時間がかかったからだという。犯人が捕まったという記事ではないので、まだつかまっていないと思われる。被害を届けた老人は2か月後にショックで(?)死亡したらしい。「老後のために」一生懸命に貯めたのに、結局使わずになくなったわけである。80歳代と言えばどうみても老後なのに、何を考えていたのだろうと思ってしまう。人の性をよく示している例かもしれない。

 同様の話になるが、健康のためにおいしいものも食べずにひたすら我慢し、健康のために早寝早起きを心がけ、健康のためにスイミングに通う老人を見かけることも多い。健康のために生きているのである。「無事これ名馬」とか「けがに強いことが名選手の条件」ということもあるが、名馬は競馬に、選手は競技に出場して勝つという目標に向かっているのであり、けがをしないことが目標ではない。

 私たち医育機関で教育に携わっているものは、多くの学生や研修医と日々接することができる。何を目標として医学部に入学したか、どういう医師になりたいのかを聞くことも多い。その中には医学部に入学するために生きてきたような学生が少なからず存在する。医学部へ入学することは医師になるためであるという返事は納得できるような気もするが、どういう医師になりたいのかという質問に対する答えは金太郎飴状態である。病気の人を救いたい、病気の人の役に立ちたいと答えてくれる。もちろん、それは間違いではないし、自分が若い頃どうであったかを顧みても、あまり考えていなかったかもしれない。ただ漠然とした目標を持ち、そのまま目指す診療科に進んでいった。

ところが、新医師臨床研修制度が始まってからは、私たちが勧誘する研修医の答えが少し変わってきたように思う。「小児科を一生続けることができるかどうか不安です。自分は結婚も出産もしたいので小児科はあきらめます」、「本当は小児科学に興味があるのですが、研修中にいろいろ話をきくと大変そうで、自分ではやれないのではないかと思って別の科に行くことにしました」などが多い回答である。また、他科の指導医も「小児科を考えているのか、それならうちは勧誘しないから」というネガティブキャンペーンも多いらしい。好意的に言ってくれているのかもしれないが、結果を見れば小児科に好意的とは思えないのはひがみ根性であろうか。

本来、医師の基本として最も大事なことは診療現場での論理的かつ科学的な思考と人間的な対応である。前者は大学や一部の(本当の)研修病院で勉強して初めて身に付くものである。後者はニセ医者でも身につけているが、ニセ医者は前者を備えてはいない。若いときにそれを学ばずしてどのような医師になると考えているのか不思議である。6年間の医学部教育は教えなければならない事が多すぎて、また学生は学ばなければならない事が多すぎて、国家試験をパスための勉強で精一杯である。残念ながら、教員も学生も本当に大事なことを討論する時間はない。卒後に論理的かつ科学的な思考を身につけるためには、指導医が多くて一見無駄に見える下働きをして初めて取得できる。人間的な対応はその後の臨床現場で患者さんと接触を重ねることで磨きをかけられると思う。しかし、人手が足りない一般病院では未熟なままでも研修を終了すれば「先生」として扱われ、いささかでも医師気分を味わえて心地よいものであろう。その気分を味わうのは10年早いと言ってしまっては時代遅れなのであろうか。

医学生は医師になってからも生涯勉強を続けなければならない。医師になることが目標であれば、医師免許を取得したことで勉強は終了となってしまう。その意味で医師になることは人生の目標にはなりえないと思う。現実の医療で人命を救う事は容易ではない。人の致死率は100%であるという事実を前にして、すべての人を救う試みは失敗する。それからどのような目標をもって医師としての人生を歩むかが良医・名医とそうでない者の分岐点になる。全ては担当する患者さんが教えてくれると思う。

 

2009年4月