WEB master 註:何かと誤解があるようなので補遺しておきたい。
ノーマライゼーションとは、障碍者がリハビリテーションを経て“正常に”なっていくことではないのか?という誤解がいまだにあるようだ。なるほど、障碍者は“ノーマル”ではないという御意見なわけだ。では、そう言うあなたは“ノーマル”なんだろうか? いったい、どこで線を引くのだろうか? そういう曖昧な、根拠のない偏見ののさばる社会こそが“アブノーマル”なのであり、それを是正していこうというのが“ノーマライゼーション”なのだと答えたい。
セクシャリティの問題についても、簡単には答は見つからない、とか、そういう話題を例示すれば“引いて”しまう、という御意見を早速いただいた(苦笑)。ありがたいことなので、お答えしておきたい。“引いて”しまわずに済むような例を挙げれば、こういうことだ。ここに、車椅子の学生がいたとする。テストの点数を取れる子で内申書の成績も良く、上の学校への進学を希望していたとしよう。受験の日、彼の受験場が階段で上るしかない上階にあったとする。一人で車椅子で来た君の責任だから受験させない、などという話になれば、誰だって憤慨するだろう。原則論として、言いたいのはそういうことだ。セクシャリティの問題が、いかなSensitive matterであったとしても、まずはこの原則論を忘れずに糸口を探すべきだとWEB masterは考える。
社会全体でバリア除くということ(この見出し自体は新聞社の方で付けてくれるのだが)についても触れておきたい。本当に、社会がそんな責任を負わねばならないのかという疑問の声もあるようだ。これについては、前段の受験生の例を以て“Yes”と答えたい。やる気のある者にチャンスを与えないのは社会全体の損失であるとも言えるからだ。
しかし、本文中に“してはいけないことについても平等”と書いたことからも分かっていただけるように、障碍者に自己責任が存在しないわけではない。卑俗な喩えをすれば、障碍者が引け目を感じて引きこもらざるを得ない(ゆえに出会いの機会がない)ような社会の在り方は、社会全体の責任として改善されるべきだが、個々の障碍者の相手を社会全体で見つけてやる必要は無い、それは個々の自己責任に帰するべきだ、というようなことだ。
グローバリゼーションだの何だのということが自己責任論とペアで語られ、“社会全体の責任”が矮小化されつつある(と感じられる)昨今、こんな言い方で、WEB master の真意を分かっていただけるだろうか…。
(この項文責=WEB master,010609 記す)