教室の沿革

腫瘍学講座 腫瘍病態学(発癌病理学)分野

(旧:医学部病理学第一講座)

T.石原正之初代教授時代

(昭和1812月〜昭和233月)

本学の前身県立医専の創立には、初代教授として石原正之 (九大、昭12)が九大から

着任した。間もなく空襲下となり、学校は転々と移動し、当時の模様はほとんど知られていない。記録によると当時の教室員は島田 彊 (昭和医専、昭和20)が229月助手に、中園喜八郎が昭和2212月に文部技官となり、教授合わせて3人がオールメンバーであった。

終戦後の混乱期に石原教授は健康を害して昭和23年結核症で死去された。

 

U.川村弘徳2代教授時代

(昭和237月〜昭和2611月)

石原教授の後には川村弘徳 (慈大、昭14)が昭和237月に来任し、既に鴨池に居を構えた当時の県立医専の病理教室と解剖室等を設計、建築を完成した。川村教授は医専が医大に昇格するに際して昭和2611月辞任し、東京監察院へ転出した。橋口俊照 (鹿医専、昭23)が昭和2411月助手として入室したが、島田は昭和26年退職、代わって福永 昇 (慈大、昭19)が同年9月助教授として来任した。

 

V.川路清高3代教授時代

(昭和274月〜昭和4811月)

昭和26年県立医専は県立大学医学部へ昇格し、欠員の病理学教授には、川路清高(阪大、昭11)が昭和2741日発令、51日に着任している。川路教授が来任する直前、424日、大学附属病院は類焼によって全焼、同時に鶴丸城跡の旧七高後身の文理学部も全焼したため、病院の復興、再建とともに基礎医学教室の移転建築という大事業が数年続き、昭和32年晩秋、新研究室への移転を達成した。それより以前、昭和303月福永 昇助教授が東邦医大へ転出し、後任助教授に北村 旦 (阪大、昭23)が来任(昭309)した。

また、当時の寄生虫学教室が国立移管問題で第2病理学教室と看板替えし (昭和31年)、橋口俊照講師はその年、第2病理の助教授と名目上配置換えされ、新たに浜田良二郎 (1解剖助教授、現鹿児島県衛生研究所所長)、大山 満 (手術部助教授) (何れも鹿医大、昭30)の2氏が卒業と同時に助手として入室した。

その当時は既に専攻生に八反丸哲夫 (慈大、昭和13)、有馬純義 (鹿医専、昭24)、井畔一心 (台北医専、昭19)、森鉄太郎 (京城医専、昭9)、稲森正愛 (京城医専、昭10)、池田 徹 (京城医専、昭13)、大窪利男 (鹿医専、昭23)、等があり、また、昭和27年病気休養した技術員中園喜八郎の後任には、川路教授の徳島大学からの赴任の後を追うようにして来任した三谷秀夫技官、その他、田中紀子、井手野憲子、石井直子の諸孃があり、教室には活気を呈する一方、多方面への研究発表も数多く、いよいよ多彩な光芒を放ちはじめた時期である。

そのころの研究テーマはほとんど風土病を目標としていた。そもそも、川路教授来任当初から本学は、台北帝大を失った日本として南方の熱帯医学研究所を主命とするとありとし、医学部を挙げてその方向に研究を行い、ひいては熱帯医学研究所を設立するのが願望であった。従って教室の研究テーマも、フィラリア (症)、ハブ毒、その咬傷害、その他熱帯性疾患の研究を主体とした。

国立に比し、県立大学の乏しい予算、新設学校としての設備、材料、機械、人材等あらゆる分野における貧弱さを克服して認むべき成果は徐々に挙がっていった。かくて、昭和33413日、天皇、皇后両陛下の御臨学に際して、川路教授は親しく「フィラリアに関する病理学的研究」を図表、スライド、顕微鏡等で天覧に供した。

昭和3311月には北村 旦助教授が奈良医大教授 (後に大阪大学病理学教授)に昇任して転出、その後に福西 亮 (阪大、昭28)、が昭和346月に来任した。また、昭和344月には本学第1回大学院生として、西村明男 (県鹿大、昭33)が入室している。教室の研究主題フィラリア研究は一応組織化学的の面では究明し尽くされ、その後は、折から活用化し始めた電子顕微鏡によるハブ蛇毒の人体障害の解明に没入し、大山 満助手 (鹿大昭34、昭35入)、富永功一 (鹿大昭35、昭36入)、鵜木春海 (昭35、昭36入)の大学院生等によるハブ毒障害の電顕的研究、或いは顕微分光的研究は電顕自体の研究の初期のものとして優れたもので、その後は寺師慎一大学院生 (鹿大昭35、昭36入)、東 襄助手 (鹿大昭37、昭39入)、本田 寛大学院生 (鹿大昭38、昭39入) 渡辺研之大学院生 (鹿大昭40、昭41入)によって「超微細研究」はますます進展し、さらにウミヘビ (エラブウナギ)毒障害をも研究対象としている。昭和3612月福西助教授はシカゴ大学ハギンス博士の研究室に留学し、DMBAによる発癌実験を研究して昭和397月帰学した。また、奄美産ソテツ毒 「サイカシン」による発癌実験は最も斬新なもので、奄美大島を抱える本学としては重要な研究題目となるべきで、これらの発癌実験に昭和42年ごろから積極的に教室を挙げて取り組み、福西助教授、寺師助手、渡辺大学院生、有馬義孝大学院生 (鹿大昭40、昭41入)、吉田浩己大学院生 (鹿大昭44、昭45入、現教授)、広田紀男助手 (鹿大昭46年、昭47入、現自治医大助教授)、吉田愛知大学院生 (鹿大昭47、昭47入、現助教授)等が中心となった。その他、亜熱帯に多い真菌 (かび)の病原性に関する研究は大窪利男氏 (鹿医専、昭23) (昭40死亡)によって始まり、中原 節 (麻布獣専、昭25)が中心となった。特殊な研究では浜田良二郎が電顕の初期時代、肺の超微細構造の観察を行った。専攻生では有園秀夫、肱岡豊次、政 真哉、指宿英造の諸氏が学位を得た。

その後、藤瀬隆幸 (昭377月〜407月)、東 襄 (昭397月〜446月)、富永功一 (昭408月〜414月)、寺師慎一 (昭414月〜576月)、渡辺研之 (昭454月〜556月)、広田紀男 (昭475月〜493月)の諸氏が助手として在籍し、また、昭和44年には内田明造技官が定年退官を迎え、その後任として新たに小玉拓郎技官が採用された。

昭和464月、川路教授は医学部長に就任し、手狭となった医学部及び附属病院の新しいキャンパスへの移転や、卒後研修制度をめぐる問題などの重要案件の解決にあたった。

昭和489月、福西助教授は新設の愛媛大学医学部教授 (現愛媛大学学長)に迎えられ、吉田愛知と共に鹿児島を離れた。吉田浩己大学院生の二年間にわたるシカゴ大学 (ハギンス教室)での留学からの帰国歓迎会の翌日、113日、川路教授は医学部長として出席されていた旧七高グラウンドで催された医学部運動会の昼休み時間に学内で倒れられた。

発見された時既に意識はなく、以後1週間以上にわたる全学を挙げての懸命な救命努力も空しく、昭和481111日逝去され、1126日には医学部葬が行われた。昭和494月より大学院を修了した吉田浩己と助手を辞任した広田紀男は愛媛大学の福西教室へ移る。

 

W.井坂英彦4代教授時代

(昭和497月〜昭和5712月)

医学部及び附属病院が新しい亀ヶ原キャンパス (現桜ヶ丘キャンパス)に移転した後、昭和497月に故川路教授の後任として井坂英彦 (東北大、昭21)が着任した。

井坂教授の着任後は、それまでの第一病理学教室にはなかった組織・細胞培養という手段を用いた新しい研究分野が展開されて行くこととなった。昭和4911月には寺師慎一助手が助教授へ、また同年12月には渡辺研之助手が講師へと昇任し、更に新しい助手として吉井紘興 (鹿大、昭43)と尾辻章宣 (鹿大、昭48)が加わり、新しい教室の陣容が整っていった。亀ヶ原キャンパスの新しい研究室の中に培養のための施設が備えられ、培養細胞特に研究室の中に培養肝癌を用いた実験が始まった。一方では、従来から第一病理教室で活発に行われてきた化学物質による発癌実験も継続して行われ、さらには実験動物を用いた変異原性物質の発癌性に関する実験など、多彩な実験病理学的研究が行われた。

昭和533月をもって吉井助手が第一外科へ転出し、入れ替わりに小浦雅敏 (横浜市大、昭49)が助手となった。また昭和55年には渡辺講師が退職し、尾辻助手が講師に採用された。これらのスタッフに加えて、小池正夫 (東医歯大昭50、昭51入)、加納通人 (鹿大昭50、昭53入)大学院生、小浦澄子 (共立女子大昭41、昭49入)研究生、また、臨床科から研究目的で派遣された研究生、更に多くの研究補助員など、人の出入りも活発であった。

昭和576月、寺師助教授は、新設された鹿児島大学南方海域研究センター教授として転出した。更に井坂教授も、昭和571231日をもって鹿児島大学医学部教授を辞任し、財団法人食品薬品安全センター泰野研究所 (神奈川県泰野市)副所長として転出された。

 

X.吉田浩己5代 (現) 教授時代

(昭和5891日〜現在まで)

辞任した井坂教授の後任として吉田浩己現教授が昭和5891日に愛媛大学医学部より招聘された。吉田教授は昭和44年本学卒業後大学院を修了したのち、昭和494月より愛媛大学医学部へ移り、助手さらに助教授を経て、再び本学へ戻ることとなった。愛媛時代の吉田教授は動物実験モデルを用いた乳癌の発生と進展に関する生物学的研究を行っており、様々な生物学的特性を有する移植株維持のため、独自に近交系Sprague-Dawley系ラットが維持されていた。また後日鹿児島で研究が進むことになる先天性コレステロールエステル蓄積ラット (世界で唯一のWolman病モデルラット)も発見したばかりで、貴重な代謝異常ラットを絶やさないために、精力的に繁殖が行われていた時期にもあたっていたため、愛媛大学から多数のラットが鹿児島大学へと移送された。これらのラットは現在第一病理教室の貴重な研究材料となっている。吉田教授就任後、この10年間のの教職員スタッフの異動は以下の通りである。昭和596月、吉田愛知講師 (鹿大、昭47)着任。昭和603月をもって尾辻講師辞任。昭和611月、吉田講師が助教授に昇格。昭和624月、藤吉利信助手 (九大、昭51)着任。昭和633月、小浦助手辞職。平成27月、早瀬ヨネ子助手 (滋賀医大、昭60)着任。同月藤吉助手は、当大学ウイルス学教室助教授に栄転。平成44月には梅北善久大学院生 (鹿大、昭62)、平成551日には大井恭代大学院生 (鹿大、昭62)が大学院課程を修了し、助手となり現在に至っている。

また、技官の異動もあり、昭和27年以来37年もの間業務に従事してきた三谷秀夫技官が平成元年3月に定年を迎え、第一病理学教室を去った。その後任として、平成元年4月より、二反田隆夫技官が採用された。

病理学教室の基本任務は当然、教育・研究・病理業務 (剖検、生検)であり、現教室は、病理業務面では、附属病院からの剖検と生検を第二学病理教室と折半して分担している。また、県下の医療機関より年間約5.000件の生検病理診断の依頼を受けている。平成54月より、県立大島病院に新設された病理部へ畠中真吾 (愛媛大、昭62、鹿大大学院63入)が専任として赴任するなど、地域医療へも大いに貢献できる状態になっている。

教育面では、医学生 (専門1年生〜2年生)へ病理学の授業を1年間にわたり週4時間行ってるばかりか、基礎系特別コース (専門2年生が約2ヶ月間基礎系教室で、研究体験をするもので、この10年間で123名が第一病理学教室を選択しており、毎年同窓会が開かれている。)や臨床病理示説を専門4年生に対して行い、その業務を十分に果たしている。特記すべきことは、問題解決能力の修得と最新の病理学知識の把握のために、学生と大学院生に呼び掛け、昭和594月にBasic Pathology研究会を作ったことである。現在までに410回の早朝例回が開かれ、会員数は現在164名にもなり9年前には学生だった会員は現在では既に大学院生・教官となり、医学・医療の第一線で活躍している。現在の教室の助手・大学院生も当然この研究会の出身者である。

現教室の研究の主テーマは、乳癌の発生と進展に関する病理学的研究とボールマン病モデルラット (吉田ラット)を用いての先天的ライソゾーム酸素欠損症と動脈硬化症の実験病理学的研究である。疫学・動物実験学・形態学・分子生物学的手法を駆使して、その本態を明らかにし、治療法を確立することを目指している。ここ数年、教室研究資源も整い着実に成果が上がりつつある。

この様に、教室の責務をつつがなく果しているのは、ひとえに教官を中心に、下松隆康 (鹿大昭57、昭59入)、梅北 (昭62)、大井 (昭62入)、尾根 暁 (酪農大昭60、昭62入)、畠中 (昭63年入)、松下俊文 (鹿大昭63、平元入)、胸元孝夫 (鹿大昭63、平元入)、高崎隆志 (鹿大平2、平2入)、栗脇一三 (鹿大平2、平3入)、李 建中 (鹿大昭59、平4入)、大町勝美 (酪農大昭63、平4入)、大薮郁哉 (熊大平元、平4入)の病理学専攻の大学院生や、黒岩俊一 (鹿大昭50、昭59入)、下園勇人 (鹿大昭57、昭60入)、永岡隆晴 (鹿大昭47、昭62入)、岡崎啓幸 (宮崎大学院昭47、平元入)、貞方洋子 (東女医大昭37、平3入)、横山冨美子 (九大昭46、平2入)、本田 寛 (鹿大昭38、平3入)、の病理学専攻の研究生、更に技官に加え、中原賞子、立山公子、平野美奈子、梶原磨理子、上村幸子、中屋公子、春山直子等の秘書、技術補佐員の奮闘の賜物である。又、この間学内学外の多数の講座と共同研究を行い、若い臨床医が病理学教室を訪れた。

乳癌研究では、相良病院 (相良吉厚病院長)、金子病院 (金子洋一病院長)に、ボールマンラットの動物実験学の研究では、新日本科学株式会社 (永田良一社長)、人体病理の研究では、南風病院 (貞方洋子病院長)、青雲病院 (川井田浩病院長)に学外共同研究施設として御協力を頂いている。

                                 (吉田 浩己、吉田 愛知)

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